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 「左義長」の名は平安時代に宮中で行われた打毬(だきゅう)と呼ばれる遊技で使用する毬杖(ぎっちょう)・毬打(ぎちょう)と言う道具が由来とされ、破損した毬杖を3本束にして陰陽師が謡いはやしながらこれを焼いた行事が起源とされています。
この毬杖を3つ結んだことから各書物には、三毬杖・三木張などと記され、やがて左義長と呼ばれるようになったと考えられます。
 現在でも正月15日前後に、どんど焼き・さいと焼きなどの名称で松飾りや注連縄を焼く行事として各地で行われております。
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 織田信長が城を築いた安土でも毎年城下で左義長祭が執り行われていたようで、派手好きで知られた信長も華美な衣装を身に纏い町衆たちに交じって踊り出たと『信長公記』に記されています。

 織田信長亡きあと八幡山に城を築き八幡城下町を開町した豊臣秀次は、安土の民を招き入れて城下に住まわしました。
安土から移り住んだ町衆たちは、秀次への感謝と亡き信長公の遺徳を偲び、古来よりこの地の氏神様であった日牟禮八幡宮に左義長を奉納することを願い出て今に至ります。
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 近江八幡左義長祭の担ぎ手は踊子(おどりこ)と呼ばれ、その衣装は各奉納町で揃えた半纏を羽織ります。
また、女物の長襦袢を着用したり、化粧をするなどの扮装をして左義長祭に参加する踊子も多くいます。
これには諸説ありますが『信長公記』に「信長公は安土城下で毎年正月に盛大に左義長を行い、自ら南蛮笠を被り紅絹で顔を包み、錦袍を着け華美な姿で踊った」とあるように、織田信長が町衆に交じって派手な出で立ちで踊ったことに由来するようです。
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 踊子たちは口々に「チョウヤレ・チョウヤレ」「マッセ・マッセ」と掛声を発して左義長を担いで練り歩きます。
前者は「左義長さしあげ」後者は「左義長めしませ」からこのような掛け声になったものと思われます。
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